新人オーディション化する国会 ―チルドレン政治が終わらない理由―

Kao/ 2月 20, 2026/ 未分類

平成は「小泉チルドレン」、
令和は「さなえチルドレン」。

時代が変わっても、
政治の世界はなぜか“新人発掘オーディション番組”の様相を呈する。
アイドル、タレント、元○○。
肩書きは毎回バラエティ豊かで、国会というより芸能事務所の新人紹介ページを見ている気分になる。

今回話題になった「筆談ホステス」出身の議員。
障害を乗り越え努力してきた点は否定しない。
ただ、ホステスとして筆談で接客していた時点から、どこか“気を遣わせる仕組み”が完成していたように見えてしまうのも正直なところ。
もし医療や教育、研究など、別の分野で能力を磨いていたなら、
「逆境を越えた実力者」と素直に拍手できたかもしれない。

ところが現実は、
知名度 → メディア → 選挙 → バッジ。
あまりにも一直線すぎて、
政治家というより“知名度の最終到達点”に見えてしまう。

市議や県議で地域に根ざした活動ならまだ分かる。
しかし衆議院は国家の舵取り。
外交、安全保障、財政、歴史観。
ここは“頑張りました”だけで座れる椅子ではないはずだ。
民主主義だから、職業の自由も主張の自由もある。
それは分かっている。

だからこそ言いたくなる。
結局、有権者は何を見ているのか。
理念か、政策か、それとも物語か。
ルッキズムで選ぶ層、
知名度で投じる層、
そして「なんとなく」で押す層。
票は等価でも、判断材料は等価ではない。

さらに裏側を見れば、
党内で人を動かすキーパーソンもいる。
かつて最年少郵政大臣として脚光を浴びた政治家が、
今もなお人事や擁立の舞台裏で影響力を持つ。
政治の世界は引退試合がない。
自ら降りない限り、ステージは続く。
栄光の記憶だけが延長コードのように伸び続け、
気づけば現役と呼ばれている。

昭和のオバちゃんから見れば、
政治家とは“信念で残る人”だと思っていた。

しかし令和の風景は、
“役割で残る人”と“都合で残る人”が混ざり合う。
そして最後に残るのは、
選んだ側の責任だけ。

政治家を語る前に、
投票用紙を持つ自分の判断力の方が、よほど試されているのかもしれない。

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